物語と手をつないでく

読んだ本について書いています。海外小説が多いです。

青白い炎 ナボコフ

不思議な小説だ。

架空の詩人ジョン・シェイドの書いた青白い炎という作品に、キンボート博士が注釈を施して発行した学術書という体裁をとったこの本は、

前書き-詩-注釈-索引

から成り立っている。

しかしながら、注釈は学術的な面から浮遊し、それ自体が物語を紡ぎだす。キンボート博士は狂人で架空の国ゼンブラの幻想に取りつかれているのだ。彼は引越先で隣に高名な詩人が住んでいることを知り、自分の想像の国-ゼンブラについて話す。それを元に詩人が詩を創作するであろうことを確信してやまない彼は詩が完成したのを聞き、ある不幸な偶然によりその詩を手に入れる。そして読みはじめて初めて、自分の期待が裏切られたのを知る。詩人はキンボートのゼンブラ幻想についての詩など書いてはいなかったのだ。彼は深い絶望に襲われ、詩に注釈をほどこし、注釈の中で自らのゼンブラ幻想を繰り広げることによって詩人の詩に侵食し、詩と自らの創作を分離不能なものにしようとする。私たちはキンボートの注釈を通じてゼンブラに関する一つの小説を読み、キンボートとシェイドの会話や近所付き合いを読み、「青白い炎」というシェイドの書いた詩を読むことになる。

青白い炎は創作活動を通じて世界の神髄を見つけ出す霊的な瞬間そのものが、創作の目的であるというテーマと同時に、書かれたものを読む行為もひとつの創作であると訴えているのだ。

”ある日眼を覚ましたら、読む能力がまったく何もなくなるということになったらどうだろうか?わたしの願いは、自分が何を読むかということだけではなく、それが読めるという奇蹟に息を呑んでほしいということなのだ”

"朗読したのは彼の無名の友人が一人が書いた無名詩であることが判明した-シェイドは下積みの詩人に対して大変親切なのだ”

 

アウラ・純な魂 カルロス・フエンテス

短編集。

耽美、若さを失う事への恐れ、エロス、幻想など。夢幻的な要素も多いけど、おどろおどろしくはなく、都市の中に幽かに見える常ならぬものの気配という感じ。洗練されている。フエンテスがメキシコ育ちではなく、ワシントンで教育を受けた事に機縁しているのかもしれない。

「最後の恋」「純な魂」「アウラ」が良かった。

 最後の恋

ある金持ちの年取った男が休暇で女を買って、その女を通して自分が歳を取った事、自分の手元には何も無い事を憂う。女の若さを羨ましいと感じるがそれも束の間の輝きに過ぎないと感じている。冒頭のシェービングシーンが繊細で美しい。

純な魂

兄弟愛の話。妹が一方的に語るので兄の本当の気持ちは分からない。

妹の愛は強く、揺ぎ無く、純粋である故に、兄の堕落を許すことができない。

アウラ

タイトルが良い。作品の神髄を表している。

永遠の時を生きる美少女を呼ぶのに相ふさわしい名前。響きの美しさの中に、

 掴み切れない謎を内包している。美とエロス、愛。フエンテスの耽美主義が発揮された傑作だと思う

 

”もっと食事に気をつけなければだめよ。まだ27だというのに、40男みたいじゃない。今どんなものを読み、何に心を奪われているの、ファン・ルイス。まさかクロスワードパズルじゃないでしょうね。お願いだから自分を裏切るような真似だけはしないでね、・・・早くアパートに帰って、靴下を脱ぎ、新聞を読みたい、そんなことばかり考えているんでしょう。・・・自分を破滅させてはいけないわ。・・・私たちに愛、知性、若さ、沈黙以外の何ものかになるようにと求めてくるものがあるけど、そういうものを断固として撥ねつけなければいけないわ。まわりの人たちは私たちを変えて、自分たちを同じ人間にしようと考えているの。私たちを許せないのよ。” 純な魂

 

”授業はだんだんくだらなくなって、単調な繰り返しに終始するようになった。文学なんて、本来教えようがないのよ。いくつかの作品を読んでみて、結局はひとりでやってゆくしかない、自分の考えで本を読み、ものを書き、勉強するしかないということに気がついたの。” 純な魂

 

”君はようやく、波のように打ち寄せ、泡立ち、静まって緑色になり、ふたたびふくれあがる海のような彼女の目を見るだろう。” アウラ

破滅者 トーマス・ベルンハルト

新聞の批評でこの本の存在を知り、本当はナボコフの「記憶よ語れ」を読もうと思っていたのに、どうしても読みたくなって手に取った。ベルンハルト初めて読んだけど、

暗いのね。ペシミズムの極みというか(決っして面白くなかったわけではない、むしろ卑小なユーモアを感じて苦笑いした)

自分から冷たい泥のぬかるみに足をつっこんで、いつまでもピチャピチャやっているような粘着質な暗さ。本当は抜け出せるけど、苦しい苦しいと言いながらその状態が嫌いではないみたいな。本質を見抜くから出てくる言葉は苦いし、簡単に世界を、人生を肯定することなどできない。あまりにも物事の本質が分かりすぎてしまうが故の苦しみ。

スイスの新聞が読みたいがために350Kmの道のりを車で走り回り、結局新聞は手に入れられない下りは笑いを禁じえない。が、彼らにとっては生き死にの問題で、精神的な真実がないと息をしていけないのだ。

2本の小説が収められていて、一本目は「ヴィトゲンシュタインの甥」で二本目が「破滅者」どちらも天才と近い位置にいた者の人生を書いているけれど、ヴィトゲンシュタインの甥の方がすっきりしている。死ぬ間際、会いにいけない作者は切ない。登場人物に対する愛着もあるように読める(実際に親友だったのだろうか)破滅者は主人公を突き放して見ていて、ひたすら繰り言を繰り返しているような文。

どちらにも共通するのは、都会に対する執着、田舎への憎しみ。

女友達のイロナが都会をすてて田舎に移り住み、自分で畑をやりだした途端に友情を棄てた所は笑ってしまう。スローライフなんか糞食らえ!思想は田舎にはないんだい!

 

”とはいえ金銭のほうは間も無く窓から投げ尽くしてなくなってしまっていたが、思考のほうはじっさい無尽蔵だった。彼はそれを次から次へと投げ出すのだったが、するとそれが(同時に)次から次へと増殖した。彼が(彼の頭の)窓から投げ出す思考が多ければ多いほど、それがいっそう多く増大していった。これはじっさい、まず狂っていて、ついには精神錯乱のレッテルを貼られてしまうような人たちの特徴なのである。”

 

絶望 ナボコフ

「カメラ・オブスクーラ」に続いて、ロシア語時代のナボコフ第二弾。ワクワク。
小説の構造がちょっと凝っていて、ある事件がもう終了した後に、それを計画した男が自分の記憶がその事件について語っているんですよという形をとっている。いわゆる、「信頼のおけない語り手」ね。
でも、推理小説じゃないから、何が語られていないかを一生懸命探して読まなくても大丈夫。騙されるのを楽しみたい。
主人公は自分には小説を書く才能があると信じていて、様々な文体とそれに対する注釈を述べていて、それがまるでナボコフの小説に対する批判のようで面白い。コナンドイルに対して、犯人はドクターワトスンでしたという小説を書いてシャーロックホームズシリーズを終了させれば良かったのに、と書いてあるのには笑ってしまった。アガサクリスティがそれ、やったね。
物語の終盤に差し掛かると、自分は才能があると言っていた主人公が、実はとんでもない間抜けだったという事が明らかになる。何によって?それは読んでのお楽しみ。


そのうちにもう、日本人なんて全員似たものどうしなんて言い出すんでしょうが。旦那がお忘れなのはさ、絵描きの目に飛び込んでくるのはまず、違いなんだってことでね。似てるとこしか見てないのはど素人だからね。ほら、映画に行くとよくリーダがすっとんきょうな声をあげるでしょうが「見て、うちのメイドのカーチャそっくりじゃない!」ってね。

カメラ・オブスクーラ ナボコフ

これがあのナボコフ!?と思うくらい読みやすかった!! ナボコフが30代で、ロシア語で書いていた時の作品。
言葉から広がっていくイメージの世界の範囲がまだ狭く、すっきりしているので、ストーリーだけに焦点を当てて読み進める事ができる。ナボコフといえば、評論家の方々がやれ言葉の魔術師だと評し、彼が小説の中で技巧を凝らす表現と、それが意味するものばかり語られがちだけど、私は、彼の書くストーリーも好き。ああ、大好きよ。
カメラオブスクーラは、後の彼の代表作「ロリータ」の原型ともなるような話で、若くて顔だけが綺麗な少女に振り回される中年の男が主人公だ。彼がナボコフの手のひらに乗せられて、破滅へと向かっていく様を楽しむことができる。

本物の人生、ずるがしこくて抜け目なく、筋肉質の蛇のような人生、ただちに息の根を止める必要のあるあの人生はどこか別の場所にあるのだがーそれはどこか。わからない。

別荘 ホセ・ドノソ

「とある小国の経済を牛耳るベントゥーラ一族の人々が毎年夏を過ごす辺境の別荘、ある日、大人たちが全員ピクニックに出かけ、33人の子供達だけが別荘に残される。」
という設定から、主役は残された子供達で、その1日の間に起こる様々な出来事が書かれているのだろうと想像して読んだら、まったく違った。いい意味で裏切られた。
作中で作者が言及しているように、主役は個々の登場人物ではない。誰1人として主役ではない。重要なのは、それぞれの登場人物と小説の舞台設定との関係性である。そして権力を巡る闘争に焦点が当てられている。
主導権を握る者が次々に変わっていくのが面白い。力を得たと思った者が、次の瞬間には別の者にたやすくその場を奪われる。階級ごとの闘争ー大人達、子供達、使用人達、外国人達、原住民達ーもあるが、それぞれの階級も一枚岩で固まっているわけではなく、階級の中にも権力争いがある。異なる階級と結託する者もいる。皆、自分なりの執念に基づいて戦っており、結局、自分以外は全部敵なのだ。小説の中で最終的に勝利するのは外国人達だが、それもいつまでも続くわけではないだろうと思わせる。力をめぐる争いはいつまでも続き、その中で人間は生きていかなければならない。
第2部で時間軸が壊れ、大人達がピクニックから帰還したのが1日後なのか、1年後なのかを故意に曖昧にしているが、私は1年は経っているものとして読んだ。その事実に目をつぶる大人達を滑稽に描いているように思ったからだ。夢を見続けたが故に、大人達は最後にしっぺ返しを受けたのではないだろうか。けれど、現実を見ていた子供達が勝利できたわけでもない。更に広大な力の前には無力だし、原住民達にいたっては常に目の前に現れる権力に従うだけだ。誰をヒーローにする訳でもない、登場人物に対する突き放し方も素晴らしいと思った。
この小説では作者が度々、自分の物語について説明する。ポストモダン的な、技巧的な意味もあるのだと思うが、自分の小説が読者に受け入れられるのか本当に悩んでいて、それを吐露せずにはいられなかったような切迫感も感じられ、嫌みには感じず、非常に面白かった。仕掛けの部分と切実な思いのバランスがうまく保たれている。第2部の外国人たちの章の冒頭で、作者が作中のある人物と出会い、バーで一杯やる部分は作者の解説のクライマックスだと思う。


『すぐに降りろ、この馬車は私のものだ、乗るんじゃない、こう呼び掛ける彼の顔はやつれて黄身ががかり、必死で作業を続けようとするその手には、助かりたい、いや、助かりたいというより、裏切り者たちと早く合流したい、さらには、これまで常に騙す側にいたのに、突如として騙される側に置かれてしまった自分に我慢がならない、そんな気持ちが溢れていた。』

グールド鳥類画帖 リチャード・フラナガン

タスマニア、もといオーストラリアはかつてイギリスの流刑地だったそうだ。
この島の囚人だったウィリアム・ビューロー・グールドが描いた36枚の魚の絵がタスマニアの美術資料館に展示されている。それに魅せられて描かれた物語。
ごつごつした詩的な文体で、けっして取っ付きやすい文章ではないのに、はやく読んでくれ、そうでないと魅力が半減すると、グールド(この物語の主人公でもある)に訴えられているようで、溢れる情報を咀嚼しきれぬまま、スピードをつけて読み切った。
グールドがタスマニアのサラ島に流刑され、囚人としてあらゆる腐敗を見ていくのだが、後半、医師を殺した罪で独房に入れられてからの展開が凄い。冒頭でグールドが語っていた王の正体が明らかになった時はぞっとした。医師の頭蓋骨が現地人の頭蓋骨と間違えられて賞賛される下りも最高。黒いユーモアが満開。そしてそのユーモアの分だけ、グールドの孤独と絶望が感じられて切なくなる。

「権威を相手にする際に最も楽な道は、必然的に黙従すること。相手が愚かな分だけ、それに比例して自分も愚かになる必要がある」