物語と手をつないでく

読んだ本について書いています。海外小説が多いです。

鳩の翼 ヘンリー・ジェイムズ

こんな話だとは思っていなかったよ。
言ってしまえば、お金持ちの娘を騙して遺産を受け取ろうとする話なのだが、
ジェイムズは行動を描かない作家なので、初めは何が起きているかよく分からなかった。
肝心なことは何一つ書かれていない。
ミリーの病気が何であるかも分からないし、ケイトの父の悪事も分からない。
手紙は中身を読む前に燃やされてしまう。ああ。
書かれるのは気持ち、揺れ動く人の思い。その中から出来事が、微かに揺らめいて見えてくる。

私はケイトの哀切を思った。彼女は純粋なものを望んでいるけれど、現実を見ざるをえない女性なのだと思う。
彼女がデンシャーに惹かれたのも、自分の「考え、思想」を体現させてくれ、確かにあるものだと感じさせてくれたからだと書かれている。
デンシャーは、ミリーやストリンガム夫人と属している世界、行動の規範としている世界が同じで、ケイトはモード夫人とマーク卿と同じ世界に住んでいる。ケイト達がいるのは、普遍的な世界、世俗的な幸せを望む世界だが、ミリー達は魂の自由や美しさを重んじている。
ミリーはお金があり、そのお金に干渉してくる親族も全て死んでしまっていない。ケイトはお金がない。助けなければならない父や姉もいる。ケイトも夢に生きたい気持ちはあるが、現実の事を思うと夢だけには生きられない。また、モード叔母の元で過ごして、自分が贅沢が好きだというのも自覚している。彼女が自分自身に向ける透察した眼は最後にデンシャーとの別れとなって跳ね返ってくる。

「私も好きではありません。けれど私はそれに耐えることができるのです。」


映画も見た。ケイトの恋する気持ちがより分かりやすく表現されていた。小説だとケイトはデンシャーを愛しつつもどこか冷静な醒めた目を持っているように思うが、映画だともう少し愛に比重を置いている。そしてモード叔母はイメージと違った。あんな怪しい魅力はないように思う。

レベッカ ダフネ・デュ=モーリア

面白かったよー。

最後はどんでん返しにつぐどんでん返し?。

実際に殺したのはマクシムだけど、殺させるよう挑発したのはレベッカ。

前半は主人公が亡き元妻レベッカの影に、ただただ怯えている長ったらしい描写が続くが、船の転覆から一転、新しい事実が次々に分かってくるし、物語の展開も早くなっていく。マックスがレベッカを殺したことは公けになるのか、どうなのか、一進一退の攻防が続く。

しかし、悪いのは全てマックスです。この意気地なしの駄目男。

純粋で弱い女性でないと愛せないのかい。

レベッカは今の時代に生きていれば、結婚などせずに自分で会社を経営したりして自由に生きていたことでしょう。マンダレーを美しく見るべき館にしたのも彼女だから。

ダンバーズ夫人の「全て遊びだったのです。遊んでどうしていけないんです?男たちのことを影では笑っていました」というセリフが彼女の本性を現しているようで好きだ。結局レベッカのことを一番分かっていて、愛してくれたのはダンバーズさんなのではないだろうか。純粋に泣いてくれたのも彼女だし。

映画も見た。長い物語をエピソードを端折ったり、出来事をくっつけたりしてテンポよくまとめているけれど、原作のねっとりした感じがなくなってしまっていた。

なにより、マックスはレベッカを殺したことになっていないし!主役の男優に悪いイメージはつけたくなかったんだろうか。殺したと、事故死では大分違うよ。結局はレベッカの勝利だという余韻を感じるラストが欲しかった。

 

青白い炎 ナボコフ

不思議な小説だ。

架空の詩人ジョン・シェイドの書いた青白い炎という作品に、キンボート博士が注釈を施して発行した学術書という体裁をとったこの本は、

前書き-詩-注釈-索引

から成り立っている。

しかしながら、注釈は学術的な面から浮遊し、それ自体が物語を紡ぎだす。キンボート博士は狂人で架空の国ゼンブラの幻想に取りつかれているのだ。彼は引越先で隣に高名な詩人が住んでいることを知り、自分の想像の国-ゼンブラについて話す。それを元に詩人が詩を創作するであろうことを確信してやまない彼は詩が完成したのを聞き、ある不幸な偶然によりその詩を手に入れる。そして読みはじめて初めて、自分の期待が裏切られたのを知る。詩人はキンボートのゼンブラ幻想についての詩など書いてはいなかったのだ。彼は深い絶望に襲われ、詩に注釈をほどこし、注釈の中で自らのゼンブラ幻想を繰り広げることによって詩人の詩に侵食し、詩と自らの創作を分離不能なものにしようとする。私たちはキンボートの注釈を通じてゼンブラに関する一つの小説を読み、キンボートとシェイドの会話や近所付き合いを読み、「青白い炎」というシェイドの書いた詩を読むことになる。

青白い炎は創作活動を通じて世界の神髄を見つけ出す霊的な瞬間そのものが、創作の目的であるというテーマと同時に、書かれたものを読む行為もひとつの創作であると訴えているのだ。

”ある日眼を覚ましたら、読む能力がまったく何もなくなるということになったらどうだろうか?わたしの願いは、自分が何を読むかということだけではなく、それが読めるという奇蹟に息を呑んでほしいということなのだ”

"朗読したのは彼の無名の友人が一人が書いた無名詩であることが判明した-シェイドは下積みの詩人に対して大変親切なのだ”

 

アウラ・純な魂 カルロス・フエンテス

短編集。

耽美、若さを失う事への恐れ、エロス、幻想など。夢幻的な要素も多いけど、おどろおどろしくはなく、都市の中に幽かに見える常ならぬものの気配という感じ。洗練されている。フエンテスがメキシコ育ちではなく、ワシントンで教育を受けた事に機縁しているのかもしれない。

「最後の恋」「純な魂」「アウラ」が良かった。

 最後の恋

ある金持ちの年取った男が休暇で女を買って、その女を通して自分が歳を取った事、自分の手元には何も無い事を憂う。女の若さを羨ましいと感じるがそれも束の間の輝きに過ぎないと感じている。冒頭のシェービングシーンが繊細で美しい。

純な魂

兄弟愛の話。妹が一方的に語るので兄の本当の気持ちは分からない。

妹の愛は強く、揺ぎ無く、純粋である故に、兄の堕落を許すことができない。

アウラ

タイトルが良い。作品の神髄を表している。

永遠の時を生きる美少女を呼ぶのに相ふさわしい名前。響きの美しさの中に、

 掴み切れない謎を内包している。美とエロス、愛。フエンテスの耽美主義が発揮された傑作だと思う

 

”もっと食事に気をつけなければだめよ。まだ27だというのに、40男みたいじゃない。今どんなものを読み、何に心を奪われているの、ファン・ルイス。まさかクロスワードパズルじゃないでしょうね。お願いだから自分を裏切るような真似だけはしないでね、・・・早くアパートに帰って、靴下を脱ぎ、新聞を読みたい、そんなことばかり考えているんでしょう。・・・自分を破滅させてはいけないわ。・・・私たちに愛、知性、若さ、沈黙以外の何ものかになるようにと求めてくるものがあるけど、そういうものを断固として撥ねつけなければいけないわ。まわりの人たちは私たちを変えて、自分たちを同じ人間にしようと考えているの。私たちを許せないのよ。” 純な魂

 

”授業はだんだんくだらなくなって、単調な繰り返しに終始するようになった。文学なんて、本来教えようがないのよ。いくつかの作品を読んでみて、結局はひとりでやってゆくしかない、自分の考えで本を読み、ものを書き、勉強するしかないということに気がついたの。” 純な魂

 

”君はようやく、波のように打ち寄せ、泡立ち、静まって緑色になり、ふたたびふくれあがる海のような彼女の目を見るだろう。” アウラ

破滅者 トーマス・ベルンハルト

新聞の批評でこの本の存在を知り、本当はナボコフの「記憶よ語れ」を読もうと思っていたのに、どうしても読みたくなって手に取った。ベルンハルト初めて読んだけど、

暗いのね。ペシミズムの極みというか(決っして面白くなかったわけではない、むしろ卑小なユーモアを感じて苦笑いした)

自分から冷たい泥のぬかるみに足をつっこんで、いつまでもピチャピチャやっているような粘着質な暗さ。本当は抜け出せるけど、苦しい苦しいと言いながらその状態が嫌いではないみたいな。本質を見抜くから出てくる言葉は苦いし、簡単に世界を、人生を肯定することなどできない。あまりにも物事の本質が分かりすぎてしまうが故の苦しみ。

スイスの新聞が読みたいがために350Kmの道のりを車で走り回り、結局新聞は手に入れられない下りは笑いを禁じえない。が、彼らにとっては生き死にの問題で、精神的な真実がないと息をしていけないのだ。

2本の小説が収められていて、一本目は「ヴィトゲンシュタインの甥」で二本目が「破滅者」どちらも天才と近い位置にいた者の人生を書いているけれど、ヴィトゲンシュタインの甥の方がすっきりしている。死ぬ間際、会いにいけない作者は切ない。登場人物に対する愛着もあるように読める(実際に親友だったのだろうか)破滅者は主人公を突き放して見ていて、ひたすら繰り言を繰り返しているような文。

どちらにも共通するのは、都会に対する執着、田舎への憎しみ。

女友達のイロナが都会をすてて田舎に移り住み、自分で畑をやりだした途端に友情を棄てた所は笑ってしまう。スローライフなんか糞食らえ!思想は田舎にはないんだい!

 

”とはいえ金銭のほうは間も無く窓から投げ尽くしてなくなってしまっていたが、思考のほうはじっさい無尽蔵だった。彼はそれを次から次へと投げ出すのだったが、するとそれが(同時に)次から次へと増殖した。彼が(彼の頭の)窓から投げ出す思考が多ければ多いほど、それがいっそう多く増大していった。これはじっさい、まず狂っていて、ついには精神錯乱のレッテルを貼られてしまうような人たちの特徴なのである。”

 

絶望 ナボコフ

「カメラ・オブスクーラ」に続いて、ロシア語時代のナボコフ第二弾。ワクワク。
小説の構造がちょっと凝っていて、ある事件がもう終了した後に、それを計画した男が自分の記憶がその事件について語っているんですよという形をとっている。いわゆる、「信頼のおけない語り手」ね。
でも、推理小説じゃないから、何が語られていないかを一生懸命探して読まなくても大丈夫。騙されるのを楽しみたい。
主人公は自分には小説を書く才能があると信じていて、様々な文体とそれに対する注釈を述べていて、それがまるでナボコフの小説に対する批判のようで面白い。コナンドイルに対して、犯人はドクターワトスンでしたという小説を書いてシャーロックホームズシリーズを終了させれば良かったのに、と書いてあるのには笑ってしまった。アガサクリスティがそれ、やったね。
物語の終盤に差し掛かると、自分は才能があると言っていた主人公が、実はとんでもない間抜けだったという事が明らかになる。何によって?それは読んでのお楽しみ。


そのうちにもう、日本人なんて全員似たものどうしなんて言い出すんでしょうが。旦那がお忘れなのはさ、絵描きの目に飛び込んでくるのはまず、違いなんだってことでね。似てるとこしか見てないのはど素人だからね。ほら、映画に行くとよくリーダがすっとんきょうな声をあげるでしょうが「見て、うちのメイドのカーチャそっくりじゃない!」ってね。

カメラ・オブスクーラ ナボコフ

これがあのナボコフ!?と思うくらい読みやすかった!! ナボコフが30代で、ロシア語で書いていた時の作品。
言葉から広がっていくイメージの世界の範囲がまだ狭く、すっきりしているので、ストーリーだけに焦点を当てて読み進める事ができる。ナボコフといえば、評論家の方々がやれ言葉の魔術師だと評し、彼が小説の中で技巧を凝らす表現と、それが意味するものばかり語られがちだけど、私は、彼の書くストーリーも好き。ああ、大好きよ。
カメラオブスクーラは、後の彼の代表作「ロリータ」の原型ともなるような話で、若くて顔だけが綺麗な少女に振り回される中年の男が主人公だ。彼がナボコフの手のひらに乗せられて、破滅へと向かっていく様を楽しむことができる。

本物の人生、ずるがしこくて抜け目なく、筋肉質の蛇のような人生、ただちに息の根を止める必要のあるあの人生はどこか別の場所にあるのだがーそれはどこか。わからない。