物語と手をつないでく

読んだ本について書いています。海外小説が多いです。

野生の探偵たち ロベルト・ポラーニョ 1998 チリ

カフェのカウンターから道行く人を眺めて、彼らの一瞬一瞬の人生に立ち会っているような気分になる。主人公の2人、アルトゥール・ベラーノとウリセス・リマ、その2人と関わった時と私の人生ってやつを54人の人が語る。全て違う人が話すわけじゃなくて、同じ人が時代をおいて何回か出て来たり(逆に1回しか出てこない人もいる)、一方の側が話したことがもう片方の側から話されたりする。証言は時代をおって進んでいくので、2人の人生がどのようだったかも辿ることができるのだが、アマデオ・サルバディラの話だけが、ずっと同じ時代にとどまっていて、54人の証言の縦軸と横軸を彩っている。
この証言を集めてまわったのは誰?という疑問が浮かぶ。第一部と第三部に日記が出てくるガルシア・マデーロかなとも思ったけれど、ー彼の存在はわざわざ第二部の54人の証言者の一人ではらわたリアリズムの研究者に、その名前は聞いたことがありませんねと否定されている。なんだか違う気もする。無数の読者達、市井の人々、一人一人が話を聞いてまわっているような。
ウリセス・リマとアルトゥール・ベラーノは共に作者の分身だと思うけれど、後半の証言はベラーノの方に重きがおかれているように感じて、作者はベラーノにより近かったのかなと思った。
セサレア・ティナヘーロの部屋の描写は胸が締め付けられる。そして、2人の詩人のその後の人生も、その部屋が発している空気のと同じようなものをまとっていたんじゃないかな。放浪のはては放浪で終わってく。
54人の証言者の中ではソチトル・ガルシアの雑誌の編集社で働き始める所がお気に入り。


“もちろん、誰もわたしが<ヒガンテ>で働いているなんて知らなかった。誰もがフェルナンド・ロペス=タピアからの払いだけでわたしの生活が成りたっていると思ってたし、それかわたしは大学生だと思われてた、大学教育なんていっさい受けていない、高校さえも出ていないこのわたしがね、でも、そこにはすてきなところがあった、まるでシンデレラの物語を生きているみたいな感じがして、どうせそのあとにはまた<ヒガンテ>に戻って、店員やレジ係に戻らなければならない身であったとしても、そんなことちっとも気にならなかったし、力なんかないところかれでも引き出して、二つの仕事を続けてた、「タマル」の仕事は好きだったし、いろんなことを学べたから、方や<ヒガンテ>の仕事はフランツを養い、服や学用品を買ってあげて、モンテス通りの部屋の家賃を払わなければならなかったから、”


“いい小説だったのかもしれない、と彼が言った。怖いこと言わないで、とあたしは言った、たったひとつの文章が繰り返されるだけのものが、どうすればいい小説になるっていうの?それは読者に対して失礼な行為じゃない、人生ってのはそれだけで充分ひどいのに、そのうえお金を出してまで「とても早起きしたからといってそれだけで夜明けが早く来るわけではない」とだけ書かれている本なんて買わないわよ、それはあたしがウィスキーの代わりにお茶を出すようなものよ、詐欺よ、失礼よ、そう思わない? 君の良識には圧倒されるね、テレサ、と彼は言った。”