物語と手をつないでく

読んだ本について書いています。海外小説が多いです。

火山の下 マルカム・ラウリー 1947 イギリス

最愛の妻イヴォンヌに捨てられ酒浸りの日々を送っているというよりは、酒浸りのせいで最愛の妻に捨てられた領事の酩酊具合が滑稽でたまらない。突然戻ってきた妻イヴォンヌとの会話の最中にも、最終的に頭の中に浮かぶのは、とにかくまず酒を一杯飲まなければとか、あの酒場に行って飲まなければとか、俺はもう5分も酒を飲んでいないぞとか、酒、酒、酒、酒のことばかり。誰かと会話をしている最中から記憶がなくなって、気づくと道路の真ん中に寝ていたり、便所の中にいたりする始末。彼のアル中の様子から漂ってくるのは、どうとでもなれ、流されるままよという、世捨て人のような気分。けれど読み進めていくと、領事だけでなく、ヒューもイヴォンヌも領事と同じように人生に対して落伍し、絶望感、挫折感を抱いていることが分かる。「あなたにはお酒という仲間がいるけど、私にはいません。このみじめな思いは、ずっと心のなかにしまったままです。」とイヴォンヌは領事宛の手紙にしたためる。再会した2人の気持ちは一瞬ぱっと希望を見いだす瞬間があるけれど、その思いを抱く瞬間はお互いにすれちがっており、決してやってこない未来だということが読んでいる側には分かるのだ。

"ついさっきポーチで目覚めた領事は、すぐにすべての出来事を思い出すや、走り出さんばかりであった。彼はよろめいてもいた。そして、いたずらに自制しつつ、必死に平静を装いながら領事の貫禄の片鱗くらいは漂わせようとして、礼服のズポンの汗に濡れたポケットに深々と手を差し入れた。それから、リューマチの足も顧みず、彼は本当に走っていた………これならば、いかにももっと大胆な目的があるように見えないだろうか?"

ああ、読み終わってしまったよ。

city アレッサンドロ・バリッコ

「好きなんだ考えることが、ずっとそうする」
変わってるけどね。

切ないでございます。読む時、登場人物の誰かに肩入れして読むことってあるでしょう。グールドとシャッツィ。シャッツィの側に感情移入していたから、最期、あんな風に終わってしまって非常に切なかった。グールドは自分の道を見つけたけど、シャッツィはどうだったんだろ。自分で言ってたもんね、「でも、どこかにでかけられない人はどうすればいいの?」シャッツィは出て行って道を見つける人ではなくて、常にここに居る人、留まっている人だったんだな。

わたしたちが孤児だったころ カズオ・イシグロ 2000 イギリス

読ませるのがうまいんだよこの人は。純粋なミステリーじゃないから、謎なんてきちんとは解かれないし、きっとたいした謎じゃないし、その謎を知ったところで悲しみが増すばかりだと分かってはいるものの、先が気になって読まずにはいられない。やっぱり読ませるのがうまいんだよ。
バンクスが上海に行ってから、監禁されている両親を助け出すという、客観的に見たらどう考えても荒唐無稽な思い込みに周囲の人々が疑いを挟まず協力してくれるのが、まるで夢のようなふわふわした世界に思えた。中尉なんか、自ら危険を冒して、両親が監禁されているとバンクスが思い込んでいる家まで戦渦の中案内してるし。まぁ全て一人称(バンクス目線)で述べられているので、作者としては、どこまでが真実なのか読み取ってよというところなのかな。両親を子供の時に失って、現実に常にうまく対処しようとしてきた主人公の自分に対する過剰な自信の思い込みが表現されているのかもしれない。
「わたしを離さないで」を読んだ時にも感じたけれど、彼が描こうとしていることと、小説の舞台設定がすごく乖離しているような気がする。本当に描きたいのは人間の心の小さな揺れ動きであって、探偵とか日中戦争の陰惨な様子とか、臓器提供の為に生まれてきた人間(わたしを離さないで)とかは、その言いたいことを成り立たせるための背景にすぎないのではないか。だから、途中、日中戦争の戦火の様子がかなり細かく記述されているのだが、(飛び出した腸が云々)その描写の酷さにもかかわらず、なんだか浮いているような気がした

視る男 アルベルト・モラヴィア 1985 イタリア

35歳の大学教授を勤める主人公。彼は専ら日常を“視る”(覗き視る、洞察する)ことで生きている。最近父親が交通事故に遭い、妻のシルヴィアは「あなたは私とセックスする時に私に聖母を求めるけれども、私は雌豚のようにセックスしたいのよ」という理由で少しの間家を出でしまう。彼は妻が家を出たのは、二人だけの家で暮らしたいのに父親と同居している今の生活が嫌だったからだろうと推察して、かつて、父親への『造反』から手放してしまった自分名義のアパートを戻してもらおうとする。ところがシルヴィアは「家を出たのは私に男がいるからよ。でも愛しているのはあなただけ」と言い、その後、どうやら妻の言う男は自分の父親らしいということが分かる。
そんなに期待しないで読み始めたけれど、1章目の終わり位からああこれは面白い、めっけもんだと思ったね。人間の感情がああそうだよねというようにストンと腑に落ちるように描いてある小説は好きでこの「視る男」もそう。視る男だけあって、主人公は自分を観察し、相手を観察し、実際に覗き的なこともしている(妻と知り合ったのは覗きがきっかけであった)。しごく冷静に自分の感情を高みから観察している記述が主なのだけれども、時々己の思いに流されてしまう描写があって、合理主義過ぎないところが人間のどうしようもなさを表していて面白い。
※調べてみたら、モラヴィアゴダールの映画「軽蔑」の原作者だった。この「視る男」は面白かったので、「軽蔑」も原作を読んでから観たら理解できるかも。

セバスチャン・ナイトの真実の生涯 ナボコフ 1941 ロシア(アメリカ)

「水中の青白い砂の上に宝石が輝いているように見えるので深く肩まで腕を突っ込んだ後で、にぎりこぶしのなかに発見するただの小石は、日常的な日の光に乾かされると小石のように見えるけれども、本当は垂涎ものの宝石なのだという事をぼくは知っている」
人によってナボコフを好きになる理由は数あれども、彼の魅力の一つに、この細かい情景描写それは心理描写にもなっているのだけれどもがあると思う。