物語と手をつないでく

読んだ本について書いています。海外小説が多いです。

1Q84

前半は凄く面白かった。天吾君と青豆ちゃんのそれぞれの背景がわかり、青豆ちゃんが宗教団体のボスを暗殺する所まで。その後、物語は停滞する。青豆ちゃんは阿佐ヶ谷のアパートの一室に匿われて身動きしなくなり、天吾君の日常が劇的に変わることもない。そもそも彼は物語の中で受動の気質を与えられていて、積極的な行動に出ないけれど。物語の後半は、2人の思いや考えが中心になってくる。そして、2人のそれは本質的に同じだから、語り手が変わっても、読者にとってその効果は殆どなく、物語は全然動かない。あまりにも2人の考える内容が似てるから、天吾と青豆は1Q841984の世界に分けられた1人の人間で、だからお互いに惹かれ合うのだ、2人が出会ったら、彼らは文字通り一つになって、天吾でも青豆でもない別の人間が誕生するのではないかと推測した。第3章に入り、語り手に牛河が登場してくる。何かが変わるかと期待したら、彼も孤独な人間で、物語の基調は変わらない。これは、天吾=青豆という人格と牛河という人格、3つ合わさって1人の人間であるのを示している、天吾=青豆は善を、牛河は悪をそれぞれ担っているということになるのかもと夢想していたら、なんと牛河さんは都合よく殺されて、天吾君と青豆ちゃんは無事に出会って違う世界に行くのです。
確かに私も、この物語はボーイ•ミーツ•ガールだ、最後に2人には幸せになって欲しい。けど、作者意地悪そうだから、ならないかもね、と考えていたので、ハッピーエンドは求めていた結果ではある。しかし、作中に落とした謎や事件の火種をあまねく薙ぎ倒して(ふかえりは途中で用無しになり、空気さなぎの創作は騒ぎにならないetc)あっさりめでたしめでたしで終わられると、この物語の中にある謎はただ主人公2人を悩ませるためにあって、2人が幸せになれば、「ああ、そういうこともあったね、けれど、わたしたち、出会って、出会ったからそれだけでいい」と振り返るためのものでしかないのかという肩透かし感に見舞われてしまった。

優男たち ハイメ・エンリケ コロンビア

タイトルから、プレイボーイな男についての話かと思ったら違った。オカマについての本だった。作者とそれから3人の作家達がオカマという自らのアイデンティティとどう関わったかについての話。
構成は以下のようになっている。まず作者の幼年時代。幼い頃から作者は自分のオカマ性に目覚め、その事を周囲が認めてはくれないという恐怖も抱いて成長する。次に、作者の師であり友人であったマヌエル・プイグが登場。彼がどのようなオカマであったか、そして、世間が思い描くオカマ像やその期待するイメージにそった行動をとっているステレオタイプなオカマ達をどれだけ軽蔑していたかが語られる。その次が、キューバ出身の作家レイナルド・アレナス。自殺する直前の彼と交わした会話の思い出や、彼の抱く深い悲しみ。そして3人目の作家が、作者が青年時代から惹かれた作家フェデリコ・ガルシア・ロルカロルカの華々しい軌跡を辿りながら、自らのオカマ性の解放がロルカの作風にどのような変化をもたらしたかを考察する。
そして最後にまた現在の作者に戻る。作者と同姓同名の人物との奇妙な邂逅が語られる。中年になってやっと作者は自分のオカマ性を認め、これがーこれこそが私ですと表明することができるのだが、例えオカマではなくとも、自分自身と向き合い、それを受け入れて生きていくことはなんと難しいことかと思う。

一つ発見があった。オカマであっても、その事を隠し、異性愛者であるように振舞い、結婚などをする人のことをクローゼットというらしい。成る程。


「なあハイメ、私は何という人生を送ってきたことだろう。キューバでオカマの知識人であることの苦悩は、革命以前でさえも、まったくひどいものだった。あんな惨めで偽善的な世界はもうこりごりだ」かれはそこで一息ついた「私はついに地獄を出て、希望に満ちてこの地に来た。だが結局は、ここも別の地獄にすぎなかった。拝金主義というのは、キューバの最悪の欠点と同じくらいたちが悪い。この地で過ごしているうちに、マンハッタンはもうひとつの地獄島にすぎないと感じるようになった。前よりも広くて娯楽も多いが、でもやはり牢獄に変わりはない。ということは、地獄はこの二カ所だけじゃないということなんだろう。私はある地獄を後にして、別の地獄に堕ちた。暗黒時代の再来を、生きて目にすることになるとはな。この疫病ーAIDSーはわれらの時代が病んでいることの兆候にすぎないのさ」

引用した部分は、悲しみにつつまれた作家レイナルド・アレナスが語った部分なので暗いが、本全体のトーンは全然重くない。むしろ、第三者的で淡々としてる。感情は注意深く隠されているので、表面はつるつるしていて読みやすい。

六月半ばの真昼どき マリー・ルイーゼ カシュニッツ ドイツ

短編集です。短編にはざっくり大きく分けて2種類あると思う。一つ目は何か現実的な事件などが起きて、それが思いもかけない形で解決されるもの。そしてもう一つは何も起きないもの。ーいや、何かは起きているんだけど、それは具体的な形をとっていなかったりする。この短編集に納められているのは殆ど後者の、何もおきないものの方だ。そして、こっちの方が書くのは難しいと思う。
以下、面白かったもの
「でぶ」
醜い女の子が自分自身のアイデンティティを見つけ出す話。作者の子供の頃が元になっているそうだが、写真を見た限りだと綺麗で、そんな風に見えない。意外。
「わらしべ」
夫に女性からの手紙が届き、浮気を予想して1人煩悶する妻の姿をかく。妄想だけで話が展開していく面白さがある。
「6月半ばの真昼どき」
タイトルにもなっている話。留守中に自分が亡くなったという知らせを持って来た女の人がいたという話を隣人から聞いて、その日を思い出してみると…。心の動きと現実が交わった凄く不思議な話。結局訪ねて来た人は死神のような存在だったことが明らかになる。
「道」
夫が亡くなった後に書かれたものだと思う。2人の生きた日々の追憶のようでもあるし、長編詩のようでもある。哀切に満ちた美しいレクイエム。
「いつかあるとき」
亡くなった女性の遺品の資産を数えにいった男に起きた心の変化とは?現実の中に非現実、別の領域がふっと入り込んで去っていく瞬間を書いている。でも、去っていくからこそ、普通の毎日を生きて生けるんだろうな。
「作家家業」
ある売れっ子中年作家の苦悩。これはすごーい面白い。ウィットに飛んでるし。遊び心に満ちている。作家は作家家業の辛さを書かずにはいられない職業なのかも。
「怪鳥ロック」
家に見知らぬ大きな鳥がやってきて去っていく話。ただそれだけの筋なのに、すごく面白いんだこれが。そして、イオセリアーニの「素敵な船と歌は行く」という映画に出てくる大きな鳥を思い出した。

通話 ロベルト・ポラーニョ

普段は短編小説は好んで読まないけど、今年出遭ってしまった凄い才能〜ロベルト・ポラーニョ〜の日本語訳で読める小説なのでむさぼるように読んだ。
短編小説というと、ちゃんと起承転結があって、ラストのどんでん返しでどれくらい読者をびっくりさせられるかといった構成がセオリーのようになっているような風潮があるけれど、この短編集は違う。始まりから既に終わってるの。何も起きない。だけれども、それぞれの人生の瞬間になんだかきらめくような特別な瞬間があって、それは予兆から始まって、その瞬間は訪れて、そして去っていく。それの繰り返し。そんな事をずっと書いているの。それなのにちっとも飽きないんだよね。言葉で捉えら所のない人間の生の瞬間を、言葉を尽くして書くことが出来る希有な作家さんの一人だと思う。

”口に20センチもあるあれが出たり入ったりしている状態であえぎ声を出すのは大変で、すごく写真映えのする子でもフェラチオをすると、たぶんあまりにも没頭しすぎちゃうのか、顔が崩れて目も当てられなくなるけれど、わたしはきれいな顔で撮ってほしいの。”ジョアンナ・シルヴェストリ

野生の探偵たち ロベルト・ポラーニョ 1998 チリ

カフェのカウンターから道行く人を眺めて、彼らの一瞬一瞬の人生に立ち会っているような気分になる。主人公の2人、アルトゥール・ベラーノとウリセス・リマ、その2人と関わった時と私の人生ってやつを54人の人が語る。全て違う人が話すわけじゃなくて、同じ人が時代をおいて何回か出て来たり(逆に1回しか出てこない人もいる)、一方の側が話したことがもう片方の側から話されたりする。証言は時代をおって進んでいくので、2人の人生がどのようだったかも辿ることができるのだが、アマデオ・サルバディラの話だけが、ずっと同じ時代にとどまっていて、54人の証言の縦軸と横軸を彩っている。
この証言を集めてまわったのは誰?という疑問が浮かぶ。第一部と第三部に日記が出てくるガルシア・マデーロかなとも思ったけれど、ー彼の存在はわざわざ第二部の54人の証言者の一人ではらわたリアリズムの研究者に、その名前は聞いたことがありませんねと否定されている。なんだか違う気もする。無数の読者達、市井の人々、一人一人が話を聞いてまわっているような。
ウリセス・リマとアルトゥール・ベラーノは共に作者の分身だと思うけれど、後半の証言はベラーノの方に重きがおかれているように感じて、作者はベラーノにより近かったのかなと思った。
セサレア・ティナヘーロの部屋の描写は胸が締め付けられる。そして、2人の詩人のその後の人生も、その部屋が発している空気のと同じようなものをまとっていたんじゃないかな。放浪のはては放浪で終わってく。
54人の証言者の中ではソチトル・ガルシアの雑誌の編集社で働き始める所がお気に入り。


“もちろん、誰もわたしが<ヒガンテ>で働いているなんて知らなかった。誰もがフェルナンド・ロペス=タピアからの払いだけでわたしの生活が成りたっていると思ってたし、それかわたしは大学生だと思われてた、大学教育なんていっさい受けていない、高校さえも出ていないこのわたしがね、でも、そこにはすてきなところがあった、まるでシンデレラの物語を生きているみたいな感じがして、どうせそのあとにはまた<ヒガンテ>に戻って、店員やレジ係に戻らなければならない身であったとしても、そんなことちっとも気にならなかったし、力なんかないところかれでも引き出して、二つの仕事を続けてた、「タマル」の仕事は好きだったし、いろんなことを学べたから、方や<ヒガンテ>の仕事はフランツを養い、服や学用品を買ってあげて、モンテス通りの部屋の家賃を払わなければならなかったから、”


“いい小説だったのかもしれない、と彼が言った。怖いこと言わないで、とあたしは言った、たったひとつの文章が繰り返されるだけのものが、どうすればいい小説になるっていうの?それは読者に対して失礼な行為じゃない、人生ってのはそれだけで充分ひどいのに、そのうえお金を出してまで「とても早起きしたからといってそれだけで夜明けが早く来るわけではない」とだけ書かれている本なんて買わないわよ、それはあたしがウィスキーの代わりにお茶を出すようなものよ、詐欺よ、失礼よ、そう思わない? 君の良識には圧倒されるね、テレサ、と彼は言った。”

鳥類学者のファンタジア 奥泉光 2001 日本

いいライブを見終わって、その幸福感にまだつつまれているような読後感。
うきうきわくわく。こういう話はね、冒険がどんなに過酷になっても最後はハッピーエンドで終わるって分かるから、来るべき大団円を心待ちにしつつ、(早く読んでしまいたいような、まだまだ楽しみたいような)楽しんで頁をめくりました。

吾輩は猫である殺人事件 奥泉光 1996 日本

きっと、「吾輩は猫である」を読んで登場人物に対して愛着があればもっと面白かったんだろうなー。なにせあの有名な出だししか知らず、犯人は寒月だ、東風だと指摘されてもよく分かっていないので、あれ誰を犯人として指摘してたっけ??となってしまった。最後のホームズ君の推理が読めなかったのが残念。船にしのびこんでからは小説の目指すところが変わってしまうので、ホームズ君の影がうすくなってしまう。